ガリツィア全史

境界地域研究 Vol.1
ウクライナとポーランドをめぐる歴史地政学

安齋篤人(著/文)
ISBN 978-4-908468-80-3
C0022 四六判 408頁
価格 2,800円 税込 (本体3,080円+税)
書店発売日 2024年12月10日

 

 

紹介

ウクライナ・ナショナリズム涵養の地なのか?

ロシアに支配されたことがなく、ウクライナ人の国が存在した歴史上重要な地、ハーリチ・ヴォリーニ公国、西ウクライナ国民共和国…

ウクライナ民族主義者組織やバンデラで知られる一方、ギリシャ・カトリックの下でリベラリズムを育んだ地でもあった。

ロシアによる侵略以降ポーランドとの連帯感が高まるも、第一次大戦からナチス期の歴史認識では対立を抱える。

ドイツ・ハンガリー・リトアニア・ハプスブルク・チェコスロヴァキア・ルーマニアとも密接に関係し、中東欧政治を理解する上で極めて重要なエリア。

目次

目次 2
年表 8

序章  東にとっての西、西にとっての東 11
東にとっての西 16
西にとっての東 20
さいごに 26

地名・人名表記について 26

凡例 27

第一章 中世のガリツィア 29
サモの国と大モラヴィア国 32
ルーシ 33
ハーリチ公国 35
ハーリチ・ヴォリーニ公国とルテニア王国 38
ピアスト朝ポーランド王国 43
ハーリチ・ヴォリーニ継承戦争とハリチナのポーランド併合 45
ポーランド「王冠国家」の成立 47
コラム:ガリツィアの都市① 49

第二章 近世のガリツィア 63
ルシ県の成立 66
コラム:ポーランドの士族と日本の武士 68
ルヴフ/リヴィウにおける宗派と「ナティオ」の形成 70
ルブリン合同とブレスト教会合同 75
近世ルシ県における農場領主制と農民一揆 81
フメリニツィキーの乱と「大洪水」の時代 83
近世のルテニア人の権利闘争 91
コラム:ガリツィアの「ロビン・フッド」
ドウブシュとフツル人 94
近世ガリツィアのユダヤ人 96
近世ガリツィアの文化と芸術 100
コラム:ウクライナ語の起源 ―ガリツィア・ポジッリャ方言、
ルテニア語 104

第三章 近代のガリツィア① 107
ポーランド分割とハプスブルク支配の始まり 110
皇帝マリア・テレジアとヨーゼフ二世の改革 112
レンベルク/ルヴフ/リヴィウの都市改造と
オッソリネウム図書館 119
クラクフ都市共和国 123
ガリツィアの都市② 125
1830年代のポーランド人独立運動(「ガリツィアの陰謀」) 128
1846年のクラクフ蜂起と「ガリツィアの虐殺」 131
フレドロ、「ウクライナ派」、
ポーランド人によるウクライナ文学 133
ウクライナ国民文学の萌芽 135
コラム:ザッハー=マゾッホとガリツィア 138

第四章 近代のガリツィア② 141
1848年革命とナショナリズム運動の高揚 142
19世紀中盤のポーランド人とウクライナ人の政治文化 147
1867年の「小妥協」とポーランド人自治の始まり 149
ルテニア人の政治運動の分裂と
ウクライナ・ナショナリズムの展開 153
近代ガリツィアのユダヤ知識人とシオニズム 155
文化と学問の開花 157
出版文化と文学サロン、カフェ 157
音楽 159
レンベルク市立劇場 161
チャルトリスキ美術館とクラクフ美術大学 162
レンベルク(ルヴフ)・ワルシャワ学派 163
1894年の地方総合博覧会 164
ガリツィア事典の編纂 165
産業化と人の移動 170
シュチェパノフスキと東ガリツィアの石油開発 174
ガリツィアの社会主義運動と民族問題 176
イヴァン・フランコ 179
ロートとヴィットリンのガリツィア 182
ガリツィアのフェミニスト 185
ガリツィアからの移民 187
大衆運動の高まり―政党運動、農民運動、反ユダヤ運動 190
シェプティツィキーと幻の1914年の妥協 195
コラム「ガリツィアの日本人」?
―フェリクス・マンガ・ヤシェンスキ 198

第五章 第一次世界大戦とガリツィア 201
第一次世界大戦の勃発とガリツィア戦線 204開戦直後のガリツィア 206ロシア軍のガリツィア占領政策 210ガリツィアにおける戦災支援活動 210ポーランド軍団とシーチ射撃団 216戦後のガリツィアの帰属をめぐる議論 219ロシア革命とブレスト・リトフスク講和 221
第一次世界大戦の終結と
西ウクライナとポーランドの二重の建国 225

第六章 ガリツィア戦争 233
1918年のリヴィウ/ルヴフ市街戦 236
戦中のプシェミシル/ペレミシュリ自治とレムコ共和国 245
ウクライナ・ガリツィア軍の十二月攻勢と停戦協議 248
1918年11月のルヴフ/リヴィウのポグロム 256
西ウクライナ国民共和国の内政と外交 258
ポーランド・ソヴィエト戦争とルヴフ/リヴィウの戦い 260
リガ条約の締結とウクライナ国家の消滅 265

第七章 戦間期のガリツィア 269
ポーランドの東ガリツィア統治 272
東ガリツィアにおける文化的差異の政治 278
議会政党と議会外政治組織 282
OUNの創設 285
1935年の関係「正常化」と東ガリツィア社会の動揺 288
ガリツィア経済の変容とエスニック・エコノミー 291
戦間期の都市文化と文化交流 295
「シュコツカ・カフェ」とルヴフ数学学派 301
ルヴフ/リヴィウのスペクタクルーレム少年の見た
「東方見本市」と映画、ラジオ 303

第八章 第二次世界大戦とガリツィア 307
独ソ占領支配下のガリツィア 310
NKVDに逮捕、投獄されたウクライナ国民民主同盟(UNDO)の幹部 315
東ガリツィアのナチ・ドイツ占領支配 320
ナチ・ドイツ占領下におけるテロルとホロコースト 324
東ガリツィアにおけるゲットーの設置とユダヤ人殺戮 328
ゲットーの解体とユダヤ人救助 330
ナチ・ドイツ占領支配の終焉とポーランド・ウクライナ紛争 335

第九章 第二次世界大戦後のガリツィア 343
ポーランド・ウクライナ間の住民交換 344
ヴィスワ作戦 347
東ガリツィアからポーランドへの「移住者」 350
西ウクライナの「ソヴィエト化」と「リヴィウ人」の登場 352
コラム:社会主義期のポーランドと
西ウクライナの新都市・団地 356
ウクライナ・ディアスポラ 358
ディアスポラ世界におけるポーランド人とウクライナ人の邂逅 360
冷戦崩壊とウクライナ独立 363
「中欧」論とガリツィアの「地詩学」 367
ガリツィアの歴史をめぐる国際的な対話と研究の発展 372
ガリツィアの歴史認識問題と過去をめぐる想起 375

参考文献 380
あとがき 402
索引 405

前書きなど

米の政治哲学者マーシ・ショアは、2014年、ウクライナのマイダン革命に参加した人々の群像を『ウクライナの夜』(2017年)において精彩に富む筆致で描いている。同書には、革命の参加者の一人として、翻訳家、エッセイストのユルコ・プロハーシコという人物が登場する。彼は、ウクライナ西部の都市イヴァノ=フランキウシク出身で、幼少期を過ごしたのはソ連時代であった。当時彼の両親が住むアパートには「失われた楽園の名残であり、私が自分一人で神秘的な言葉『ガリツィア』で要約していた数々」の物があったという。ユルコにとってガリツィアというソ連時代以前の「古い世界に属するものは何でも―建物、さまざまな物、芸術、言語―それらに取って替わった新時代のものより優れていた」。またユルコの前には、ガリツィア時代の、古いウクライナ語を話す年寄りたちが、若者とは異なる表情を目に浮かべていて、彼らの盛んな身振りやわざとらしい表現のことごとくが、「失われた世界の名残であることを示していた」。彼は成人すると、ヨーゼフ・ロートやユゼフ・ヴィットリン、デボラ・フォーゲルなど、ガリツィア出身のドイツ語、ポーランド語、イディッシュ語の作家の作品をウクライナ語に訳すようになった。
ユルコのガリツィアへのあこがれは、単に彼の興味や好奇心だけからくるのではなかった。ユルコの家族の経歴をショアは次のように書く。

ユルコが自分もその一部であると感じた歴史的環境は、ブルーノ・シュルツの世界に深く根差していたが、その歴史的環境が実在していたことを疑うものはまずいまい。ユルコの家系は、ギリシャ・カトリック(合同)教会を信じる聖職者貴族だった。ポーランド化もロシア化もされていないギリシャ・カトリックを信仰するガリツィア系ウクライナ人、1848年のヨーロッパ革命のリベラルなナショナリズムを受け入れたウクライノフィレの末裔だったのだ。戦間期ヨーロッパで最後の、そしてごく少数のリベラルであった、こうした狭い環境にある者たちは、ステパン・バンデラやウクライナ蜂起軍の急進的なナショナリズム、また彼らのポーランド人やユダヤ人やそのほかの民族に対する敵意やテロリズム、民族浄化をけっして受け入れなかった。なぜならそうした伝統が自分たちのものであったことなどなかったからだ。[ショア2022:15(訳文は筆者が一部変更)]

この引用部分で言及されている「ブルーノ・シュルツの世界」「ギリシャ・カトリック」「ウクライノフィレ」(ウクライナ派)については、専門書を除いて日本語で知る機会は多くない。それに対して、「ステパン・バンデラ」や「ウクライナ蜂起軍」という言葉は、残念ながら現在のロシア政府が流すプロパガンダによって、読者も目にしたり耳にしたりすることがあるかもしれない。しかし、ユルコの祖先らが受け継いできたガリツィアのリベラルなナショナリズムの伝統は、バンデラが活動した第二次世界大戦前後よりもはるかに長く19世紀中盤から第二次世界大戦勃発までの1世紀あまりを通して培われたものであり、ギリシャ・カトリックの伝統はさらに数世紀に渡るものである。実際、現在は西ウクライナの一部をなすガリツィアのリベラルな伝統は、2014年のマイダン革命を機に再び注目を浴びることになる。西ウクライナの中心都市リヴィウは、市長を含め、市全体が革命の側についており、リヴィウでは既に「すべてが勝ち取られていた」。[ショア2022:55] ただし、ガリツィア出身者が、たとえば冷戦末期のように、指導者を立て一つの政治勢力としてマイダン革命後のウクライナ政治を主導しようとしたわけではない。ガリツィアを代表する地域政党などは首都キーウを中心とする政界では存在感がほとんどなく、ロシアがネオナチ政党と呼ぶ、一時西ウクライナで支持を集めた自由(スヴォボーダ)党もマイダン革命後の議会選挙で1にまで議席を大幅に減らしている。[赤尾2022:128] このように現在のウクライナ政治におけるガリツィアの役割は、一部の識者が強調するほど大きくはないのである。むしろ今日重要なのは、ロシアに支配されたことのない歴史を持つガリツィア(ソ連期はウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国の一部)が、ウクライナの一部をなしていることの意義であろう。その際、ガリツィアの歴史とは、かつてその地に住んでいた、ウクライナ人、ポーランド人、ユダヤ人、ドイツ人、アルメニア人たちが紡いだ小さなヨーロッパの歴史であり、その歴史から伝統と教訓を、今日のウクライナ人は受け継いでいる。
失われた文化世界、リベラリズムの伝統、急進的ナショナリズム―それらが意味するものはそれぞれ異なるといえ、ガリツィアという地域にかかわる事柄である。本書は、現代の政治的偏向を極力排し、過去の文脈をたどりなおしながら、ガリツィアの歴史に関する様々な事柄や出来事を、本邦の一般の読者に向けて解説するのが目的である。
本書でも著書をしばしば参照している西ウクライナ出身のウクライナ史家、ヤロスラウ・フリツァークは、「ガリツィアは西にとっての東であり、東にとっての西である」という、ガリツィア史を理解するための鍵となる発言をしている。[Hrycak [2018] 2022:120] ガリツィアから「東」の世界(西ウクライナ地域を除くウクライナ、あるいは隣国のベラルーシやロシア)がガリツィアを「西」とみなし、ガリツィアから「西」の世界(ポーランド、ハプスブルク、ドイツ等の中欧、西欧諸国)がガリツィアを「東」とみなしてきたことが、ガリツィア史に固有のダイナミズムを生んだというのである。序章ではこの「東にとっての西」「西にとっての東」の意味を具体的に考えながら、本書の内容を要約したい。

東にとっての西
そもそもガリツィアとは、どこを指すのだろうか。現代の地図帳で探してもその地名は見当たらない。ガリツィアとは、現在のウクライナ西部のヴォリーニ、ポジッリャ、ブコヴィナと並ぶ「ハリチナ(Галичина)」という一地方がラテン語化した名称(英語ではGalicia、ポーランド語ではGalicya / Galicja、ドイツ語ではGalizien、なおロシア語ではГалиция )である。アルファベットの綴りが似ていることからスペインのガリシア地方と混同されやすい。ガリツィア地方の範囲に該当する地方自治体は、リヴィウ州(Львівська область)、イヴァノ=フランキウシク州(Івано-Франківська область)、テルノーピリ州(Тернопільська область)である。
この小さな一地方がなぜウクライナ人にとって重要なのだろうか。まず、ウクライナ人にとってガリツィアは、中世のハーリチ・ヴォリーニ公国や第一次世界大戦後の西ウクライナ国民共和国といった、短命ながら歴史上ウクライナ人の国が存在した点で重要である。中世のルーシ国家の後継はどちらかという問題をめぐって現代のロシアとウクライナの間で論争があることは知られている。ウクライナ側の主張は、次のようである。ガリツィアを根拠地とするルーシの分領国の一つハーリチ・ヴォリーニ公国のダニーロ・ロマノヴィチ公は、13世紀にルーシを滅ぼしたモンゴル軍の侵入を防ぎ、モンゴルから西のキリスト教世界を守護する者としてローマ教皇からルーシの王位を与えられた。また、モンゴル軍によって破壊されたキーウ/キエフの正教会の総主教座に代わり、ガリツィアに新たな府主教座を設置した。この「西」から与えられた正統性を基に、ルテニア王国(ルテニアはルーシのラテン語名)は、ルーシの後継を自任した(第一章)。「西」とガリツィアのウクライナ人の関係は、14世紀半ばにハーリチ・ヴォリーニ公国を併合したポーランド・リトアニア共和国の時代でも重要な転機を迎えた。この時期、ガリツィアは「ルシ県」というポーランドの地方行政区の一つとなった。当時ルテニア人と呼ばれたウクライナ人の貴族は、新たに移住してきたポーランドの士族(貴族)と同等の権利を得る代わりにポーランド語文化を受け入れた。中にはローマ・カトリックに改宗する者も現れ、「ルテニア人にしてポーランド国民」という複合的な帰属意識を持つようになったのである。ガリツィアの正教会の多くもまた、18世紀までに、東方の典礼を守りながらローマ教皇庁の傘下に入る「合同(ユニエイト)教会」という独特の教会組織に変貌した(第二章)。
1772年のポーランド分割後、ハプスブルク帝国の統治下に入ったガリツィアは、ハプスブルク政府による様々な近代化政策の影響を受ける。1848年の農奴解放によって農民は法的には完全な自由民となった。合同教会はギリシャ・カトリックと改称され、ローマ・カトリックと対等な立場に置かれた。19世紀中盤からヨーロッパ全域で広まった、抑圧された民族の解放を訴えるリベラルなナショナリズムもガリツィアに移入し、近代的なウクライナ・ナショナリズムの運動が起きたが、ハプスブルク政府はポーランド人ナショナリズムに対抗させるため、それを一定程度許容した。ここで重要なのは、当時のウクライナ・ナショナリズムの担い手が、知識階層のギリシャ・カトリックの聖職者ないしその子息であった点である。19世紀後半、隣国のロシアでウクライナ人やポーランド人の民族運動に対する抑圧が強まるにつれ、ロシアから多くの亡命者が逃れたガリツィアは、両民族運動の拠点となった。ただし、第一次世界大戦までウクライナ(ルテニア)人のナショナリストの当面の目的は、独立よりも、1869年にハプスブルク政府と「小妥協」を結んでガリツィア全域の自治権を得ていたポーランド人と同等の政治的・文化的自治を、交渉や選挙など合法的手段によって得ることであった。例えば、ウクライナ語の初等教育は19世紀後半から認められていたが、ウクライナ人勢力は新たなウクライナ語教育の大学の設立などを求めた(第三章、第四章)。
1918年の大戦末期、ハプスブルク帝国が崩壊の危機に瀕する中、ガリツィアのウクライナ人勢力は、リヴィウで西ウクライナ国民共和国を建国し、独立のためキーウのウクライナ国民共和国と統一してポーランドと戦った。しかしポーランド・ウクライナ戦争にウクライナ側は敗れ、ガリツィア全土は1919年にポーランドに占領された。1920年–1921年のポーランド・ソヴィエト戦争では、それまで反目していたポーランドとキーウ政権がともに「東」のソ連と戦った。その際ポーランドに占領されたガリツィアの回復を断念するという苦渋の決断をウクライナ側は強いられたにもかかわらず、勝機を得られず、戦争は、ポーランドとソ連によるウクライナの分割で終結した(第五章、第六章)。
戦間期(1921–1939年までを本書では指すものとする)ウクライナ人勢力の多数派は、ポーランド政府に対して、ハプスブルク期と同様の自治を求めたが、抑圧を強めるポーランド政府とウクライナ人勢力の間の亀裂は深まった。後者の一部が急進的なイデオロギーを掲げてウクライナ民族主義者組織(OUN)を設立すると、OUNのテロ活動とポーランド政府による平定作戦という、両者による力の応酬が続いた。他方で、ポーランド政府の干渉を受けながらも、ガリツィアのウクライナ人やユダヤ人の少数民族系の協同組合は経済的な成長を遂げ、それぞれ「東」の民族同胞のネットワークを通じて東方の市場を開拓しようとした(第七章)。
ロシアは、帝政期においては、19世紀後半までガリツィアのルテニア人の政治運動を支援したが、1876年のエムス法制定を機に国内のウクライナ人運動を抑圧し、ガリツィアへの支援も停止した。その一方で、ガリツィアを占領支配した第一次世界大戦中のロシア軍や、第二次世界大戦中のソ連軍は、ウクライナの「西」の辺境のガリツィアを西欧化=ポーランド化、ドイツ化の象徴とみなし、モスクワを中心とする「東」の世界に統合するためガリツィア社会の改造を試みた。農業集団化やウクライナ語政策を導入した点でソ連はロシアと違いがあるものの、双方の占領政策は、反対派に対する過酷な弾圧を伴った(第五章、第八章)。ロシア占領軍の標的は、ウクライナ・ナショナリスト、ソ連占領軍の標的は反共の自由主義者とされたが、弾圧されたのはいずれも、ギリシャ・カトリックの聖職者やウクライナ人の中道派、左派政党であった。OUNやウクライナ蜂起軍(UPA)などの急進的なナショナリストは、こうしたウクライナの他の政治勢力が壊滅した後も、地下組織として第二次世界大戦中に抵抗を続けたが、ソ連軍の鎮圧により組織は崩壊した(第八章)。
第二次世界戦後から冷戦崩壊の時期のガリツィアは、ソ連を構成するウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国の一部となった。ガリツィアではギリシャ・カトリックに対する弾圧が続く一方で、ウクライナの他地域からガリツィアに移住した人々は、新たな「リヴィウ人」として、ガリツィアに残る「西」の文化の影響を受け、地下のギリシャ・カトリック教会とともに冷戦末期の反体制運動を担うようになった(第九章)。
以上のような経緯をたどると、ガリツィアが「東にとっての西」として重要な位置を占めていることがわかる。歴史的に常にウクライナがロシアと一体であったわけではなかったという理解は、最近日本でも広まっているが、具体的にウクライナ史とロシア史の違いを探るには、ガリツィアを含む西ウクライナやクリミア半島など、ウクライナの歴史を「西」や「南」から見る必要がある。

西にとっての東
では、なぜハリチナというウクライナ語よりも、ガリツィアというラテン語化した名称が一般に知られているのだろうか。それはガリツィアという地名が、ウクライナ人以外にもかつてこの地に住んでいたポーランド人やユダヤ人、ドイツ人にもなじみが深く、共通の故郷として記憶されているためである。近世のポーランド・リトアニア共和国、近代のハプスブルク帝国、戦間期のポーランド第二共和国によって支配された結果、ガリツィアには西からポーランド人、ユダヤ人、ドイツ人が移住し、東のウクライナ人、ルシン人、アルメニア人とともに多様な住民が混住する地域となった。このようにガリツィアの歴史をたどることは、ポーランドやハプスブルクの歴史を深く理解することにもつながるのである。
ここで注意するべきは、時代ごとにガリツィアが示す範囲が異なる点である。中世と現代のハリチナは、ハプスブルク期や戦間期では主に東ガリツィアと呼ばれる地域に相当する。ただし、プシェミシル、サノク、ジェシュフ等の都市は、中世から近世にかけてはハーリチ・ヴォリーニ公国やルシ県に属したが、ハプスブルク期は西ガリツィアの一部としてみなされ、現在はポーランド南東部の都市に属するなど、複雑な過程を辿った。これに対して、クラクフを中心としてポーランド語でマウォポルスカ(Małopolska)と呼ばれる地域は、ハプスブルクの統治期のみ「西ガリツィア」と呼ばれた。米の東欧史研究者ラリー・ウルフは、ハプスブルク政府が、こうした起源の異なる地方から構成される新領土の正当性を主張するため、「ガリツィア人」という文化的な表象を創造し、ガリツィアという領域を実体化させようとしたと指摘する。[Wolff 2010] 本書ではガリツィアの歴史をハプスブルク期のみに限ることはしないが、ガリツィアが指す領域が時代ごとに変化し、その都度、それを表す表象が変化したことは注意したい。
ハプスブルク期にガリツィア領に加えられた西ガリツィア地方は、マウォポルスカという地名で独自の歴史を持っており、本書では、主にハプスブルク期以降で取り上げる。サン川を境界線として西ガリツィアでは住民の多数がポーランド語を話し、宗教的にはローマ・カトリックであったのに対し、東ガリツィア(ハリチナ)では住民の多数がウクライナ語を話し、宗教的にはギリシャ・カトリックであるなど、両地域の住民構成は対照的であった。ただし、近世の旧ルシ県に含まれていた西ガリツィアのプシェミシルやサノク、またその近隣のレムコ(ポーランド語ではウェムコ)地方では、ウクライナ人やルシン人のマイノリティが居住する一方、リヴィウなど東ガリツィアの都市部ではポーランド人が多数派を占めるなど、第二次世界大戦に至るまで両地域では様々な民族、宗派の人々が混住していた。

ハプスブルク期のガリツィアの諸都市の宗派別人口
(1910年のオーストリアの国勢調査)
各市域(郊外を含む) ローマ・
カトリック ギリシャ・
カトリック アルメニア・
カトリック
レンベルク/ルヴフ/リヴィウ 105,469 39,314 165
クラカウ/クラクフ 116,656 1,698 15
ブロディ 31,714 91,226 –
ドロホビチ 37,566 102,242 11
コロメア/コウォミア/コロミヤ 22,189 77,323 103
ペレミセル/プシェミシル/ペレミシュリ 56,623 79,954 8
ジェシュフ/リャシウ 127,548 2,633 –
サノク/シャニク 42,727 54,664 6
スタニスラウ/スタニスワヴフ/スタニスラヴィウ 35,288 90,965 150
タンシュタット/タルノポル/テルノーピリ 46,189 76,061 12

各市域(郊外を含む) 正教徒 アルメニア正教徒 新教徒 イスラエリート(ユダヤ教徒)
レンベルク/ルヴフ/リヴィウ 525 35 3010 57,387
クラカウ/クラクフ 64 5 1045 32,321
ブロディ 268 35 303 22,596
ドロホビチ – 11 2251 29,588
コロメア/コウォミア/コロミヤ 281 1069 – 2,388
ペレミセル/プシェミシル/ペレミシュリ 220 2 607 22,543
ジェシュフ/リャシウ 13 1 80 13,993
サノク/シャニク 9 5 18 11,249
スタニスラウ/スタニスワヴフ/スタニスラヴィウ 394 – 1344 29,754
タンシュタット/タルノポル/テルノーピリ 17 – 132 19,724

ポーランド、ハプスブルクの統治政策は互いに差異があるとはいえ、「東の辺境地帯」としてガリツィア(ルシ県、ハプスブルク期の東ガリツィア)を半ば植民地のようにとらえていた点は類似しており、両国の政策は、ガリツィア統治を通して、「東」の視点から見直すこともできる。たとえば、ポーランドによるガリツィアのカトリック化と合同教会の成立は、他方で正教徒に対する抑圧を強める結果となった。近世を通じ正教徒は地方行政の参画や商業活動において制限を受けるなど、様々な法的差別を受ける一方、合同教会もまた、ローマ・カトリックの従属下に置かれたのである。正教徒側は、法的差別解消のために権利闘争を始め、それは必ずしも十分な成果を収めなかったものの、階層を越えたウクライナ人同士の団結を強めた(第二章)。また、ハプスブルク期に合同教会から改称されたギリシャ・カトリックは、西欧化の波に対して伝統的な東方の典礼を守り続けた。19世紀中盤にポーランド人中心のガリツィア自治政府によるウクライナ語をキリル文字からラテン文字に表記を変更する改革に対しては強硬に反対し、ギリシャ・カトリック主導のウクライナ人の強い抵抗を見たハプスブルク政府は、改革を中止させたのである(第四章)。
戦間期のポーランドでは、東ガリツィアや、ベラルーシ西部、リトアニアのヴィルニュスなど東部領土は、「クレシィ」(辺境)と呼ばれた。ポーランド政府は、これらの地域の多数を構成している住民を、民族意識に「目覚めて」いない「半文明」の民として捉え、住民を一部の「ウクライナ人」や「ベラルーシ人」を自称する「ナショナリスト」の勢力の影響から切り離せば、ポーランド国家への同化が可能と考えた。しかし、そうした見方は、それまでポーランドと独立と領土をめぐり争っていたウクライナ人、ベラルーシ人、リトアニア人の存在を軽視したものであり、ポーランド政府の少数民族統治は、少数民族側との妥協が失敗すると、1930年代後半には抑圧的なものに変化していった(第七章)。
第二次世界大戦におけるナチ・ドイツのガリツィア占領支配は、辺境である「東」のガリツィアを占領者のドイツ人のための植民地に作り替えることが主要な目的であった。ウクライナの独立を期待して、当初ナチに協力したOUNは、バンデラなどの指導者が、ガリツィア占領後すぐにナチに捕らわれてしまった。大戦中のOUNがナチのユダヤ人迫害に対してどれほど関与したかについては今日ウクライナ内外で議論されている。ガリツィアにおけるポーランド人、ウクライナ人、ユダヤ人の関係は、大戦中のホロコーストやOUN / UPAによるポーランド人住民の虐殺、また戦後のポーランド・ウクライナ間の強制的な住民交換と「ヴィスワ作戦」と呼ばれるポーランド政府によるウクライナ人住民の強制移住によって、決定的な破局を迎えた(第八章、第九章)。現代においても第二次世界大戦の歴史認識をめぐる問題は、ポーランド・ウクライナ関係に影を落としている(第九章)。
近世から19世紀半ばまでのドイツ人、ポーランド人の作家や芸術家は、自分たちとは異なる異質な「東」を思わせるウクライナの風土を作品でエキゾチックに取り上げており、ハプスブルク期のガリツィア関連の書物などにも「半アジア」といった同様のオリエンタリズム的な見方が看取される(第二章、第三章、第四章)。対して、ザッハー=マゾッホ、イヴァン・フランコ、ヨーゼフ・ロート、ユゼフ・ヴィットリン、ブルーノ・シュルツ、マネス・シュペルバー、ユーリー・アンドルホーヴィチなど、19世紀後半から20世紀のガリツィア出身の作家は、ポーランド人、ウクライナ人、ユダヤ人の関係の緊張や経済的貧困、戦争の惨禍など、ガリツィアが直面する諸問題を意識して、作品にも取り入れていた(第三章、第四章、第九章)
他方でガリツィアにおける民族間の融和や和解を追求した人々、組織にも本書は注目する。第一次世界大戦後のポーランド・ウクライナ戦争では、敵方であったウクライナ人を対等に扱い、その自治を認めるよう求める人々が、ポーランド社会党に存在した。戦中にギリシャ・カトリックのアンドレイ・シェプティツィキー府主教は、ローマ・カトリックのユゼフ・ビルチェフスキ大司教とともに停戦を仲介した(第六章)。シェプティツィキー府主教はまた、第二次世界大戦中に「汝殺すなかれ」という書簡を発表して暗にナチのユダヤ人虐殺を非難し、ダヴィド・カハネをはじめリヴィウのラビやユダヤ人生徒を教会にかくまい続けた(第八章)。第二次世界大戦後、パリのイェジ・ギェドロイツを中心とする亡命ポーランド知識人は雑誌「クルトゥーラ」を刊行するかたわら、同じく亡命した西ウクライナ知識人と交流しその活動を支援するとともに、戦前はポーランド人が多数派の街であったリヴィウ(ルヴフ)の返還を求めるポーランド世論に対して、戦後のポーランド・ウクライナ国境を尊重するよう訴えた。1970年代にポーランドの反体制運動の精神的主柱であったクラクフ司教のカロル・ヴォイティワは、亡命中のギリシャ・カトリックのヨシフ・スリピー総大主教と接触、ソ連の弾圧下にあるギリシャ・カトリックの活動を励ました。スリピー総大主教も、ヴォイティワ司教が教皇ヨハネ・パウロ二世に就任すると、彼のエキュメニズム(教会合同)の活動を支えた。またソヴィエト期、リヴィウの作家協会会長であり反体制運動の指導者でもあったロスティスラウ・ブラトゥニは、ウクライナ国民という共通の帰属意識に必ずしも共通の文化が必要であると考えず、ウクライナの独立に際しては、国家統合のために、ポーランド語やロシア語を含むウクライナ国内の多様な文化を尊重するべきと説いた。こうして冷戦崩壊までにポーランド、ウクライナ間の和解を進める機運が非政府レベルで徐々に高まったのである。現代では、ポーランド・ウクライナ間のガリツィア研究者同士の交流も盛んであり、失われたポーランド人、ユダヤ人の文化的遺産を保存し、過去の記憶を想起する取り組みもウクライナ側で始まっている(第九章)。今日のロシア・ウクライナ戦争に際して、ウクライナと歴史認識問題を抱えるポーランドが同国の支援を進める理由には、こうした歴史的背景もあると考えられる。本書は、第二次世界大戦中のホロコーストやジェノサイドによってガリツィアの多民族社会が崩壊したことをもってその歴史を閉じることはせず、戦後の展開まで叙述することで、「西にとっての東」としてのガリツィアの意義をたどりたい。

さいごに
専門家の間でガリツィアは、過去の度重なる戦争や最近のロシア・ウクライナ戦争でもウクライナが戦地となったことで、ヨーロッパ諸国とロシアが衝突する「破砕帯」や「流血地帯」といった名称を付けられ、戦争・紛争の多発地域として例に挙げられる。他方で、ガリツィアは東西文化の境界地域でもあり、混淆(ハイブリッド)文化も花開いた点が積極的に評価されている。本書が双方の見方に配慮することで、本邦の読者がガリツィアの歴史を単純化することなく、その複雑な全体像を理解されれば、筆者にとって望外の喜びである。
本書は、今なお戦禍に苦しみながらも、耐え抜こうとするウクライナの人々と、日夜懸命に同国に支援を続けるポーランドなど周辺諸国の人々に捧げられる。

地名・人名表記について

●歴史的背景にかんがみ、第九章の現代編までは、地名はウクライナ語とポーランド語の併記を基本とし、ハプスブルク期に当たる近代編はドイツ語も地名に併記した。たとえばウクライナ語地名はUAリヴィウ、ポーランド語地名はPLルヴフ、ドイツ語地名はDEレンベルクと表記する。また、併記が繰り返される場合はスラッシュ(/)で示す。なおRUはロシア語、LIはリトアニア語。)ただし固有名称に地名が出る場合は煩雑なため、併記はせず、時代ごとに名称を変更した(レンベルク大学、ルヴフ大学、リヴィウ大学など)。併記する場合、現在ウクライナ領の地域はウクライナ語を、ポーランド領の地域はポーランド語を優先した。しかし、表記する時代にポーランド領であった場合は、歴史的表記を尊重し、ポーランド語の地名を基本的に優先した。またハプスブルク期はドイツ語が公用語であったため、ドイツ語表記を優先した。ワルシャワなど慣用的に用いられている名称はそのまま用いた。*なお表記は 衣笠 [2020] を参考にした。
●人名は、ウクライナ人はウクライナ語を、ポーランド人はポーランド語を、ドイツ人はドイツ語で表記した。ただし複数の国々から自国民として重視される人物は、複数の言語で表記する場合もある。ユダヤ人はドイツないしポーランドに同化(文化変容)する場合が多かったため、ドイツ語、ポーランド語で表記したが、ヘブライ文字で人名を表記する場合もある。
●ウクライナ語の地名、人名の発音は、平野[2020]、プロヒー[2024]を参照したほか、ユリヤ・ジャブコ先生(茨城キリスト教大学准教授)にご教示いただいた。

凡例

●ネイションは「国民」「民族」、ナショナリズムは、「国家主義」「国民主義」「民族主義」など複数の訳語があてられるが、地域や階層を超えて人々の政治的主体を構成する概念という意味では共通する。そのためネイションやナショナリズムが単体で出る場合は訳さず、他の名詞とともに現れる場合(民族学校など)や固有名称(西ウクライナ国民共和国など)で出る場合にのみ国民や民族などに訳し分けた。
●本文中で登場する「ルーシ」と「ルテニア」とは、後者が前者をラテン語化したもので、本来は同じ語だが、ロシアと区別して現在のウクライナの領域を指すために近世、近代はルテニアで表記する。なお、「ルシ」は「ルーシ」のポーランド語表記である。
●本文中で登場する「東ウクライナ」はガリツィア、ヴォリーニ、ザカルパッチャ、ポジッリャ、ブコヴィナの西ウクライナを除く地域を指す。
●近代の章では本文中のオーストリア政府はハプスブルク政府と同義で用いられる。
●引用に際して筆者による補注は[]で示した。

著者プロフィール

安齋篤人(アンザイ アツト)
東京大学大学院総合文化研究科地域文化専攻博士課程在学中。1993年(平成5)、茨城県生まれ。東京外国語大学国際社会学部卒業後、東京大学大学院総合文化研究科地域文化専攻修士課程修了。ポーランド政府奨学金を取得し、ヴロツワフ大学留学(2021-2023年)。専門は中東欧ユダヤ近現代史。

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